横浜国立大学教育人間科学部附属横浜中学校同窓会

ホーム特別寄稿恩師による特別寄稿

懐かしい附属横浜中学校

懐かしい附属横浜中学校

白井 文雄

昭和十九年九月十五日、半年ほどの繰り上げということで師範学校(現在の国大)を卒業し、九月三十日県庁で「川崎市立柿生国民学校訓導を命ず」という辞令を手にし、翌四月一日甲府の東部第六十二部隊に入隊、二十年八月十五日終戦、九月十二日復員、体調を整え、二十日頃だったと思いますが、初めて学校に行き教壇に立ったのが私の教師としてのスタートでした。

そして昭和二十五年十一月下旬頃だったかと思いますが、川崎市の小学校の体育の研究授業があり、参観に行ったところ運動場で教員のO先生から「国大の附属中学から先生を探してほしいと要請があり、教委としても何回か話し合ったのだが、白井君に行ってもらおうということになったのだがどうだろう。是非」とのこと、将に「青天の霹靂」ふぞくの「ふ」の字も頭の中にはありませんでした。いつからですかと聞きますと三学期からということ、これにはまた更にびっくりしてしまいました。 担任している児童、そして父兄にも途中でおさらばなど考えられませんでした。とにかく慌しく、別れ翌日恐る恐る校長室を訪ね昨日のことを報告した訳です。校長いわく、「そりゃぁ白井君いくべきだ、附属というところはこちらが希望していけるところじゃないよ。あとのことは学校も、そして教委も責任をもって対処するから」ということです。やぁ大変なことになったものだと頭の中が真っ白になりましたよ。

昭和三十六年一月七日からだったかと思いますが横浜線中山駅まで自転車、東神奈川から京浜東北線で桜木町へ、ここから市電で大和町下車、細い曲がり道を曲がりくねった道を十二、三分だったでしょうか、順調にいって約二時間、昭和四十五年三月三十一日まで約二十年間立野の岡に通いました。保健体育と国語の中の書写、その中の毛筆書道を担当しました。

附属中は世間一般からは進学校というレッテルが貼られていたかと思いますが、生徒たちの日常生活はがつがつしたところはなく、その雰囲気は極めて明るく、のびのび学校生活を楽しんでいるといった印象を今でも忘れません。

クラブ活動は私が学生時代バスケットをやっておりましたのでバスケット部の顧問を担当しました。特に女子が強く、市、県の大会によく参加し、市では優勝し県でもベスト4にも入りましたね。あの連中が今でも年に一度くらい集まってお茶を飲み、おしゃべりに花を咲かせます。私も呼んでくれます。幸せです。 勿論高校、大学で活躍した人もいました。

夏期集落のこと、遠足、修学旅行のこと、箱根、日光、八ヶ岳でのキャンプ生活、飯盒炊さん、楽しかったですね。 とにかく私にとりましては立野の丘での二十年間は忘れることはないでしょう。 そうそう、あの校歌も私の在職中にできたものですね。「あぁ若き花花 あぁ若き花花」 最後になりましたが、長くなりすぎたようです。附属中学校の益々の発展、充実を念じながらペンを置くことにします。

Copyright (C) 2001- Yokohama J.H.S Affiliated with Y.N.U Alumni Association. All rights reserved.
横浜国立大学教育人間科学部附属横浜中学校 同窓会 http://fuchu.sakura.ne.jp/