横浜国立大学教育人間科学部附属横浜中学校同窓会

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赤点

赤点

小丸 久仁雄

赤点―それは落第点である。中学時代、私は英語の成績で赤点を貰った。

私の少年時代は戦前・戦後にまたがる。大日本帝国陸海軍が太平洋戦争に突入したのは、私の小学校六年生の時である。ラジオは矢継ぎ早に陸海軍の輝かしい戦果を報じ続けた。中学生になって間もない土曜日の昼下がり、下校の途中であった。新大久保の駅頭から我が家の方角に見たものは、天を焦がさんばかりの猛火黒煙。米艦載機による日本初空襲であった。こんな屈辱的なことを許してなるものか!

憂国の気概とばかりは言えないが、私は親の反対を押し切って陸軍少年飛行兵学校操縦科の生徒となった。十四歳。「泣き虫」「意気地なし」「役立たず」−そういう自分への挑戦もあったろう。「もう駄目」「参った」は絶対許されぬ厳しい、学科と訓練の毎日ではあったが、歯を食いしばって耐え抜いた。

やがて日本の敗色も濃くなっていった。グァム島を基地としたB29爆撃機の編隊が昼夜わかたず日本の頭上を圧するようになった。ついで硫黄島よりP51戦闘機、更には艦砲射撃も加わるに至って、日本全土は焦土化した。東京、横浜をはじめ主要都市は殆ど灰燼に帰し、爆撃や機銃掃射で死んだ仲間を身近に見ながらも、「負けてたまるか、我がが日本負けるはずがない」とひたすらに念じていた。

広島・長崎への原子爆弾の投下によって、必勝の信念も空念仏に終わった。

無条件降伏!    昭和二十年 八月十五日。 十五歳

敗戦国民 特に軍籍のある者はどうなるであろうか…捕虜?…強制労働?…人知れず山奥に隠れようか?…そんなことを思いながら、とぼとぼと家路についた。

「これからの日本は学問あるのみ!」と父の言葉に励まされて中学校(旧制)に編入学。戦後は飢餓の苦しみ。今では想像もできぬほど、食べるものも、着るものも何もない。原始生活に近い世の中。学校にいったものの教科書すらない。本を借りて写すありさま。辞書さえあればと捜し求め、頭を下げて借り得たときの喜び。敵の国獄であった。授業中指名されても全く答えられず、冷や汗を流すのみ。白紙に近い答案。そして「赤点」! この時ほど耐え難い思いに打ちひしがれたときは無かった。あの死にさらされた苛酷な日々にも比ぶべくも無い苦痛。英語に泣き、英語に追われた感ばかりが苦い思いでとして蘇ってくる。英語から逃れられず、終に英語教師になってしまったのは「赤点」のせいだろうか。

付属中学校には昭和56年、横浜国大英語科卒業以来28年間お世話になりました。居心地がよいのでつい長くなりました。人生の大半を付属で過ごして、あと4校ばかり公立中で過ごしました。だから皆さんと共に語るべき思い出が一杯です。公立校もいろいろな先生と生徒がいて、付属と違った意味で勉強になりました。英語を勉強するって英語を通して人生を学ぶことであるなぁと思います。

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