横浜国立大学教育人間科学部附属横浜中学校同窓会

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インタビュー 第1回 宮島 洋 (9期)

1.附属中時代の思い出

もうだいぶ前のことになってしまいますが、中学時代の思い出を教えてください。

2期生は昭和23年入学だった。校舎は後で知ったのだがPTAが建てた本校の横に隣接した2階建ての狭い木造建物だった。夏は完全暖房でね。本校舎は女子師範が入っていたが、空襲のあとで雨漏りがひどかった。

行事とかはそのころから多かったのですか?

いや、定番の行事はありましたが、そんなことはありませんでした。そのころは本当に日本の戦後復興の時代ですから、まだ、(行事などを行う)余裕はなかったですね。当時は二クラスでしたけども、とにかく優秀で仲がよかったですね。

それで、その後、ほとんど同じようなコースで大学まできた人間が相当(大勢)いたことがあります。僕は兄貴(7期の宮島喬先生)とまったく同じコースをたどってきました。当時は今みたいな受験戦争ですとか、そういうものがはっきりしない時代でした。

中学校卒業後の高校・大学生活はどのように過ごされたのですか?

先ほども言いましたように、僕はほとんどというかまったく兄貴と同じルートをたどってきました。高校から東京に移ってきて、大学・大学院と東京で学生生活を送ってから、長野に赴任したこともあるので、だんだん横浜とのつながりが希薄になってきた面はあるかもしれません。しかし、(宮島先生が横浜にいたころは)港の見える丘公園ができるころ、というと現在とは大きく違うわけです。当時の横浜が戦後の復興を経て大きな都会に発展していくというそういう時代をすごしたわけですから、その横浜という地域に対する愛着は非常に強いのですけれど、ただ、もう両親もなくなり横浜にも行く機会はなくなってしまいました。

宮島先生が財政学や経済学を志されたきっかけをお聞かせください。

高校を卒業したのが昭和36(1961)年で60年安保の時代でした。それまでは法学部に行こうと思っていたのですが、60年安保の時代には法学部の先生はあまり発言されていなかった。むしろつい最近亡くなられた隅谷三喜男さんであるとか経済関係の先生方の発言が多かったこともあって、それに惹かれて方向転換をしたように思います。経済をやりたいとか財政をやりたいとかはじめから思っているわけではありませんが、ただ関心はいつも国や地方公共団体に向いていました。それで財政学とはそういう(国や地方公共団体の経済面を考える)学問なんです。ですから、そういうこと(財政学)をやったのは、60年安保などの時代の背景が大きかったですね。

毎日授業の1時間目の初めに3分間スピーチをやらされた。同級生の一人が「同胞(きょうだい)」という当時みんなが知っていることを題材にして話したが、うまい話だなと感心させられたことをよく覚えている。ただ自分がそのとき何についてしゃべったかはよく覚えていないのだが。 何を話せばよいのかその朝悩む。学校まで歩いて通学していたのだが、その15分間を使って考えていた。それが習慣となって、今でもコラムの内容が15分間で思い浮かぶ。附属の時代に培ったことで非常に役立っていると思いますよ。

中学生くらいから、興味の対象は(国や地方公共団体に)決まっていたのですか?

いや、それはそんなことないです。そんなことありえないです。中学時代は、兄貴の話以外に、親父の話もあって、当時親父が横浜国大の教授だったんですね。それで、附属学校の主事(現在の校長先生)をやったこともあるんです。で、時期はずれていますが、僕は生徒会長をやらされたので、非常にいやだったんですよ(笑)。先生方はみんな僕が息子だということを知っているし、いやだったんです。親父は哲学が専門でして、だから中学や高校のはじめくらいはどちらかというと哲学や思想史などに関心があったのですが、幸か不幸か比較的数学ができ合理的な考え方をするほうだったので、経済学にも(興味が)向いたと思います。

親父が横浜国大の教授で、中学二年で生徒会長をやらされて、本当にいやでしたね(笑)。先生方はどう思われてるかは別にして個人的にはあまり思い出したくないというのはこういうことです。

ご家庭でもよく学校の話とかをされたのですか?

いや、あまりそういう話はしなかったですね。でも、中学生くらいの頭でも、親父が何を考えていたのかはすぐに見当つくところもありますしね。今とおそらく一番違うのは、昭和20年代から30年代というのは日米安保問題とか1ドル360円の時代の経済状態とか、当時の横浜――当時はまだアメリカ軍の施設が本牧周辺などの多く残っていた――とか、そういう時代ですから子どもも子どもなりにずいぶん意識が違っていたと思います。

今みたいに無関心でやっていけるというわけではなかった、ということですか?

そうですね。確かに今より貧しかったし、横浜のいい場所はアメリカ軍のキャンプで占められていたので特に意識するしないにかかわらずいろいろな問題を割と実感していたといえるでしょう。だから、多分そういうことがあったために青臭い議論をしたりしたのだと思います。そういう生徒も多かったですしね。

大学に入られて研究者の道を志されたきっかけはどのようなものだったのですか?

それは結構早かったです。研究者というよりも早く教壇にたちたいという気持ちは強かったですね。それは親父や兄貴の影響を受けた部分も多かっただろし。あと、今はそんなことはないですが、昔の親父を見ていると夏は自宅にいることが多くて、いいなひまだなと思ったこともありました(笑)。

教養学部の先生を見ていると、ひまそうでいいなと思ってしまうこともありますが。

それは、東京大学は外からのプレッシャーが相当強いのでそんなことないと思います。休みになれば授業はなくなるけれどもそれは学生たちの話であってわれわれは研究の稼ぎ時ですから。

なるほど、授業が本職というわけではないですからね。

いえいえ、そんなことはないです。本職は教育、授業です。研究は基礎ということもあるけれどそれを教育に還元していくのが授業の役割ですから。やはり基本は教育、優れた人材を育成するということにあると思います。

大学・大学院から現在にいたるまでの思い出などを簡単にお聞かせください。

経済学部に進学して、論文を書いて、主にアメリカの財政を研究して大学院の二年までは順調にきたのですが、修士課程から博士課程に入るころにいわゆる東大紛争(私達は東大闘争といいますが)がありました。大学院生も特に経済研究科はコミットしていました。それで経済研究科も機能停止に陥って一年留年し、博士課程を何とかでました。そのような時代なので就職先などなかなかなく、先輩の伝を頼って長野県の信州大学に講師としていき、10年くらい経って東大に戻ってきたわけです。70年代なども一貫してアメリカの財政を研究して特段大きな変化というわけではなかったけれど、80年代初めにアメリカの大学に客員研究員として留学したことは転機になったと思います。経済学部のゼミで240−50人の学生を送り出し、研究もそれなりの成果を出し、満足しています。振り返ってみると、やはり小学校・中学校時代をすごした横浜の街や両親のことなどが原点だと思います。

教壇にたつと聞いたとき、やはりお父様は喜ばれましたか?

そうですね、喜んでくれました。でも思い返すと同期がすぐ就職する中で大学院の6年間の間は経済的にもサポートしてくれましたし、大変ありがたいと思っています。

学生紛争と聞いても実感が湧かないのですが、バリケードの横で授業とかをしていたのですか?

授業はみんな中止でした。僕は大学院生だったのでもともと講義はあまりなくそういう面では勉強するのに問題はなかったですが、気持ちの面でやはり違いました。当時の先生方は権威的で、若い助手や大学院生が教授とまともに議論をやりあえなかったのではないかと思います。

現在の東京大学副学長の仕事を教えてください。

大学は連邦制度のように各学部・研究科や研究所が集まっているようなかたちです。大学本部を連邦政府に見立てれば、やることは外交など非常に限られたものです。ただ、全学的に意見の調整が必要なものもあり、一部の予算などがそれにあたります。学生の共用施設やキャンパスの整備なども大学本部担当しています。学部・研究科の予算は個別の施設には使われても共用部分には使われないことが多いのが実情です。全体の意見の調整が大きな仕事でもあります。もう一つは国立大学法人化という設置形態の問題も全学的な問題であり大学本部で担当しています。

普通の大学教授のイメージとは違いますね。なんとなく、週に何コマか講義をもって、その合間に授業の準備をして研究をしてというイメージを持つのですが。

そうですね、そのような先生方がやはり大学の中心的な担い手です。けれども自分の研究や教育ばかりに関心を持ち、全学的な部分への関心が少なかったとこが昨今の批判の原因ではないかと思うのです。

やはり、上からまとめる人が必要ということですか?

いや、必ずしもそういうことではありません。先生方は独立の中小企業主ではなくて大学全体の中で動いているということです。東大は年間2000億円ほどの予算ですがその多くは納税者からや企業からのものです。われわれの活動はいつも納税者に対して説明することが必要なのに、そのような意識が希薄であったということに問題の原因があると思います。

インタビューの最後に、後輩へのメッセージ・アドバイスをお願いします。

若いころは先が見えないけれども、やはり一歩一歩着実に自分の生きかたをしていく必要があると思います。なるべくしてなったというよりも、いろいろな選択の積み重ねが今の結果になるのだとおもいます。自分の性格などを考えて、みえやえらくなりたいとか有名になりたいとかではなく、自分にとってまたほかの人にとってもよい生き方を目指していくことが必要だと思います。

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