横浜国立大学教育人間科学部附属横浜中学校同窓会

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インタビュー 第12回 小林 和茂さん (32期)

3. 会社員からヘルパー、そして市会議員へ

大学卒業後は?

トッパンフォームズという会社に入りまして。簡単にいうと印刷会社なんですね。凸版印刷の系列で、銀行のATMで出てくる紙とか、宅配便の伝票とか、コンピュータで連続して印刷する紙とか、ビジネスで使う伝票とか、ビジネスフォームって言うんですけど、それを専門に作ってる会社なんです。
私、大学で遊びほうけていたので、あんまり就職活動とかしていなくてですね、たまたまうちの祖父がその会社に勤めてて、もう引退してたんですけど、それで名前だけ知ってたので、もうあまり選択肢もないのでちょっと応募してみようと。当時はバブルでしたから、(会社が)もうとにかく囲い込んじゃおうということで試験に行ったら翌日面接させられて、そのまま拘束されて入ってしまったというわけで(笑)

16年間勤められたそうですが、どのようなお仕事をされていたんですか?

半分の8年間ぐらい、営業職をやって。主に銀行を担当してました。
で、営業マンがイヤでイヤでしかたがなくてですね、なんとか変えてくれとしつこく言い続けていたんです。ちょうどその頃会社がマルチメディアの事業を立ち上げることになって、当時はまだパソコンが出始めた頃で、私そういうの好きなもんですから、ノートパソコンとか自分で買って自分で営業の記録とかつけたりしてたんですね。それをたまたまシステム専門の人が見てて、営業マンの中でインターネットとかコンピュータとか出来る人を引っ張って来いといわれたときに私の名前が挙がって、それでそっちの部署に。人間万事塞翁が馬で。(笑)主にインターネットのホームページを作る仕事を担当してました。

昔から機械とかコンピュータといったものがお好きだったんですか?

そうですね。昔からラジオとか作ったり。あの頃はマイコンとか呼んでたんですけど、たまたま秋葉原で安売りしてた15万円のノートパソコンを奥さんに内緒で買っちゃったのがきっかけでパソコンにちょっとはまって。で、ちょっと上達してきたときにそっちの部署へ行ってそこで勉強しながら。
最後は、クレジットカード会社のホームページのウェブマスターをやりましたね。

16年も勤めた会社を辞めてホームヘルパーになろうと思ったのはなぜですか?

父親も退職しましたので、私の母が便利屋を始めたんですけど、逗子・葉山の実家で、お年寄りからのご依頼って多いんですよね。西暦2000年にちょうど介護保険が始まったもんですから、それだけお年寄りのお世話をするんだったらじゃあ正式に認可をとってやりましょうということになって、ホームヘルパーの派遣の事業所を始めたんです。
それが時流に乗って急成長して会社として大きくなってしまって、あまりにも忙しくて母が倒れるような状態になってしまったので、じゃあ会社を辞めてそっちを手伝おうかと思って。入ってからヘルパーの免許をとったんです。もともとは福祉の仕事を目指していたというわけではないんです。私の人生、したくてしたことはほとんどありませんので(笑)

ヘルパーになって苦労したことは?

これまでのビジネスマンの、会社対会社でお付き合いするのとでは全く違いますからね。それはやっぱり最初は苦労しました。ビジネスの世界とは「契約」とか「理屈」とかで成り立つ世界ですけど、お年寄りっていうのはそういう世界ではないですからね。
最初はお年寄りの考え方とか行動パターンとかについていくのにすごく苦労しましたね。

同窓生インタビュー 小林 和茂さん (32期)
  1. 中学生活
  2. 高校でアメリカへ留学・大学では仏教を
  3. 会社員からヘルパー、そして市会議員へ
  4. 選挙、そして当選
  5. 議員としての生活
  6. プライベートについて
  7. 附属中という学校に入って
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