鬼頭 附属中学校に入学することになった理由を教えてください。
太田 はい、私は公立の小学校でした。それで横浜国大附属中は優秀だと聞いていまして、優秀な仲間と一緒に勉学に励みたいと思い、附属 中学を受けました。小学校のときはそこそこのレベルだったのですけど、附属中学は非常に優秀な人がたくさんいたので刺激になりましたね。
鬼頭 中学校で一番興味深かった行事、思い出はありますか?
太田 やはり部活ですね。私がちょうど中学1年のときが東京オリンピックでしたので、バレー部に入りました。そのバレー部の人と一緒に汗を流していたのをすごく覚えています。例えば各クラブでグランドの取り合いをしたこと、それから近くに強い中学がたくさんありまして、偶然勝てたときに、相手だった強いバレー専門学校風の生徒が「附属になんか負けて!」とコーチから怒られているのを見て「やったー」なんて思ったのを覚えています。
鬼頭 当時バレー部は強かったのですか?
太田 大体通常は一回戦で負けてまして(笑)、たまに二回戦に行ったときの喜びはすごかったです。
取材中の太田球団社長
太田 部活を始めとしたスポーツも、勉強も非常に盛んな学校だったので、周りがいろんな知的欲求を満たしてくれて、私自身、文武両道を附属中学校で学びましたね。
鬼頭 私も野球部に属していましたが、附属中に入るまでは勉強ばかりでほとんどスポーツをやってなかったという人でも、やはり附属中学校だからスポーツを始められたというような印象があります。
太田 そういう印象の仲間が多かったです。今でも付き合わせていただいている仲間も多いので、附属中はありがたいなと思っています。
鬼頭 附属中だからこそ今活かされているような特長というのはありますか。
太田 みんながいろんな分野に進まれたので、そのいろんな分野の仲間と付き合えるということです。大学に行くと、大体サラリーマンなる人が多いのですが、中学の友人はいろんな分野にみんないますから、会うといろんな話ができるし聞けるし、たとえば中西会長のように自分で会社を起こして社長になった人もいますので面白いですね。
鬼頭 お二人とも18期でいらっしゃいますが、18期には前線で活躍されている方でほかにどのような方がいらっしゃいますか。
太田 例えば人を救うために医学を志した者がいます。
中西 医者や先生・大学教授などの教職関係が学年全員の4人に1人はそういう仕事についています。企業の上場役員が今3名かな。彼(=太田社長)を含めて。一部上場企業の役員が3名いますね。
太田 そしてそれだけではなく、たとえば音楽家を目指していた人が、音楽で名を成しています。いろんな分野の人がたくさんいますね。
中西 今回のインタビューはたまたま太田君にお願いする形になったけれども、ほかにももっとすごい人はたくさんいますね。海老塚耕一さんは40代で多摩美(=多摩美術大学)の教授です。
太田 いろんな分野ですごく活躍している人がたくさん附属中学にはいますね。
鬼頭 そうですね。マルチというか、多方面に渡っていますね。
太田> それが一番すばらしいのではないでしょうか。自分の人生において、附属中学に入って視野が広がったという気がします。私は横浜市西区の浅間町に住んでいたのですが、当時はその狭い地域の視野しかありませんでした。しかし、附属中にはいろんな地域の人が集まっていてすごく視野が広がりました。
鬼頭 そうですね、電車に乗って通学する環境、しかも私立ではなく国立、国公立の中学校であるという状況が良かったのだと思います。
太田 ほかには「先生」ではなく「教官」と呼ぶのが印象に残っていますね。
鬼頭 今でも「職員室」ではなく「教官室」がありますね。一番印象に残っている先生はどなたですか?
太田 一番印象に残っているのは 雲居先生っていう音楽の先生なのですが、音楽の授業で「サウンドオブミュージック」という映画に連れて行ってくれて、すごく感動しました。 ほかにももちろんいろんな個性的な先生がたくさんいらっしゃったのですけど、自分の中学の中で一番印象に残っているのは、その音楽の雲居先生が横浜ピカデリーに「サウンドオブミュージック」に授業として連れてってくれたことです。あれは感動しました。今でも強烈に覚えています。