横浜国立大学教育人間科学部附属横浜中学校同窓会

ホーム同窓生紹介同窓生インタビュー

インタビュー 第10回 紀田 順一郎さん (2期)

2.その2

中学生最初の授業で治田先生がカールブッセの詩をドイツ語で書いてきて、いきなり「これを読みなさい」というような凄い先生が何人かいたものだから、えらい学校に入ってきてしまったなあとみんな思いました。

えらい学校に入ってしまったという思い出はわたしにもある。入学試験のときのことだが、アルマイト製のでこぼこのお盆の上にやかんを置いて「はいどうぞ。お茶を」と持ってきた。これは試験であったが、わたしは反射的に「茶碗が無いから飲めないよ。」と言ったのが良かったようだ。そこで何もしないでぐずぐずしているとよくなかったようだ。後にみんなと変な試験だったなと話したことを憶えている。

隣で三本杉君がトルストイを読んでいるのにはびっくりした。カルチャーショックだった。読者はやっぱり背伸びしなければだめだなと思った。今は背伸びすることが無いから、皆横並びの本しか読まなくなってしまい、一生同じ本ばかり読むようになってしまう。ほんのちょっと背伸びして知的刺激を受けるような本を、友達が読んでいることが大事なんですよ。大人がよい本だと言ってもだめなんですよ。附属の環境の中にはこのほんのちょっとという+αが在った。わたしはさすがにすぐにはトルストイを読まなかったが、今のままではまずいとは思った。赤字でバット書かれちゃあね。

稲葉君はませた生徒で、吉屋信子の代表作「良人の貞操」をとりあげて感想を発表することになっていた。(添田先生が担当する国語の授業) しかしその前にみんなの前で発表することになっていたので聞いてみると、吉屋信子の少女小説「櫻貝」に変わっていた。理由はというと添田先生から貞操という言葉がよろしくないからと言われたのでということだった(笑い)。あれは忘れられないなあ。しかし卒業後何年か経って聞いてみると、添田先生は忘れているんです。都合の悪いことは忘れているんだな。

ここで高校時代に作ったという「附属中学同窓会誌 ひかり」や「学校新聞 いぶき」などたくさんの冊子を見せていただいたのですが、このときの苦労話を話していただきました。

附属中学ということで思い出すのは、私たちの世代はものが無かったから習字ができなかった。墨と筆が無いんだから。だから中学の2年か3年のときにやっと習字が復活して筆を持つことができた。そこで小さい字で名前を書くのに非常に苦労した。たとえば神奈川師範學校横濱附屬中學校と書くのにどれほど苦労したことか。學・濱・屬はむずかしくてとくに屬は至難の技だった。神奈川師範學校から横濱国立大學に変わって、横濱と學という字が2回出てくるので、これをうまく書ける者が一人もいなかった。そのため年中怒られていたので何とかしようと家で一生懸命練習をした。その結果「横」だけうまく書けるようになった。そうしたら中山先生からこの「横」はよく書けているといきなり三重丸を頂いた。後にも先にも字を褒められたのはこのときだけだった。

文集については、秋田先生が音頭を取って文集を盛んに書かされた。授業の時間中は国語の時間なのに外に出て、情景をいろいろと観察してきてそれを文章でスケッチするわけなんです。そしてそれが一歩進んで随筆を書かされてお互いに批評をさせられた。これが難しかった。でもそれは仲間だし、雰囲気がよかったからそれなりにできたのでしょう。

先生はとにかくみんなまじめ一本だった。たとえば数学の村上先生は独特のおとなしい字でガリ版を毎回毎回たくさん斬ってくる。これがみんな問題なんだな。これを解けととにかく数学漬けなんだな。当時は紙が無いから必ず裏を目いっぱい使っていた。こういう裏を使うということがこの時代の特徴なんだな。

立野の丘の上で環境が良かったことも影響していたのでは。

学校が丘の上に有ったのは良かったかな。少し歩いて階段を上がり始めるあたりからちょっと振り返るとどんどん復興していく街が見えるんですよね。見下ろした風景を目にしてから学校に行く。これが思い出に残っている。栄華の巷低く見えるとね。(笑い)

同窓生インタビュー 紀田順一郎さん(2期)
  1. その1
  2. その2
  3. その3
  4. その4
  5. その5
Copyright (C) 2001- Yokohama J.H.S Affiliated with Y.N.U Alumni Association. All rights reserved.
横浜国立大学教育人間科学部附属横浜中学校 同窓会 http://fuchu.sakura.ne.jp/