横浜国立大学教育人間科学部附属横浜中学校同窓会

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インタビュー 第10回 紀田 順一郎さん (2期)

4.その4

立野の丘には立野高校が在ったため小・中・高・大とみんな在ったのですけれど。

高等学校が無いことがデメリットというふうに問題視してはいなかった。どうしてなのかと考えてみると、みんな高校はどこかに受かると思っていたからでしょう。

わたしは慶応の試験を受けたが試験日は早い時期にあった。特に受験勉強をしたわけでもなく、滑り止めという意識も無く、とにかく受けてみようという気持ちで受験した。そうしたらほとんど受かっていた。わたしは慶応に進学する気持ちはそのときは無かった。 (この年慶応高校には男子生徒の半数近くの17名が合格したすごい年だった) 合格発表の翌々日に小学校の廊下を用事があって歩いていた。向こうから添田先生がたったったとやって来て「佐藤、おまえ慶応に行け!」 その一言で慶応高校に入学することになってしまった。

当時、確定した進学指導は無いし、大体のところに収まるだろうとアバウトだった。 受験勉強を始めたのは3年生になってからで、旺文社の参考書が出始めの頃で、それと清水書院などのそういう参考書を2,3冊を読んだだけですよ。ただし全部丸暗記でね。秋田先生はうるさくてしょうがなくて国語文法も丸暗記ですよ。文部省の国語教科書は非常につまらないのだが、ただただ丸暗記させられた。そのおかげでいい点数が取れたので、暗記という手もあるかなと思いましたよ。

附属のタイプというものがあると思うのですが。良さというのが卒業して大人になってから気がつくのですけれど。

当時は附属中学も戦後の創成期というか神話時代があった。あらゆる面で先生にとってはたいへん苦労したと思うが、子供たちにとっては希望に満ちた時代だったことが大きいですね。高校大学へ進学するということは人生のパスポートを得ることと同じなんですね。附属の生徒はほとんど全員が高等教育を目指していたから。 教える側も男子生徒は大学まで行くものと思っていた。ただし女子生徒は高校までで、大学に行く生徒は少なかった。

   

旧制中学の伝統があって、体は小さいが精神は大人びているということがあって、これは面白いなと思いました。

女子師範の附属だということで、教生に教わった思い出はたくさんある。女生徒が教生を見ていて先生になりたいと思う生徒もいたが、たいへんなのでなりたくないと思う生徒もいた。一方教生の場合も人気のある先生には寄っていくが、いかつい先生には寄っていかないということがあった。

一クラスに3人の教生が配属されたとき、クラスを三つに分けて担当させる。それぞれの教生は歌を教えたりして大体同じことをやるんです。自然と競い合ううんですね。そうすると子供たちが引き立てようという気持ちになる。学芸会などで英語の歌など一生懸命になってやろうとする。そして最後に教生が卒業していくとき泣くんだよね。他の中学校では味わえない良いことだと思いました。

ここでガリ版で刷った印刷物が紀田さんから示されて。

3年生のときにアンケートがあって、その答えをいろいろとメモに控えていた。その他に当時の授業の時間割表を書いておいたのですが。1時限目が音楽というとんでもない時間割だった。実は本校の音楽教室の空き時間で決められた。また2時限続きの授業が多かった。調子が狂ってしまうんだな。国語・国語という時間割りのときは、秋田先生は省略しないものだから文法に2時限使われてこちらはたいへんだった。助詞がどうのこうのと中学でこんなのやってもしょうがないと思えたのだが。

ノートをとる習慣は秋田先生の指導の下、普段からやっていて好きだったことなので高校へ行っても同人誌などを出したり、読書録も続けていましたね。また高校時代から観始めた映画の評論も然り,後に文章で生活しようということに役になった。

同窓生インタビュー 紀田順一郎さん(2期)
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