憶えています。船がすごく揺れたことを。船員が1人落ちて「落ちたぞー」と船がグーと回ったんですよ。これを体験したため、その後揺れた船にずいぶん乗ったが、「けっこうまだまだ大丈夫だな」と思いましたよ。(笑い)
わたしは箱根にはアレルギーがある。治ったのは40から50にかけてだった。実は集団疎開で箱根に行っていたのです。そのとき凍傷にかかって骨が出るくらいにひどかった。また父親が亡くなってしまい、何で迎えに来たのか教えてくれず、おかしいなおかしいなと思いつつ自宅へ帰った思い出があります。そのために箱根と聞くだけでぞっとしたことを覚えています。
修学旅行には思い入れがいろいろあって、そのとき買い求めた写真などの記念品はあります。当時はカメラが無い時代だったので、写真が無いことが良かったのかな。ビジュアルなものが無くてもこのような文章にしたものが記憶に残っていて良かったのかもしれない。これのほうが記憶が固定化しなくて良かったのかもしれない。枕をぶつけっこしたことなどみんな良く覚えていますよ。
添田先生が旅行に行く前のオリエンテーリングでやってはいけないことの説明をした。この中で窓から腕を出してはいけないというのだが、先生が知っていた例として、他校の生徒が「鶴がいる鶴がいる」と窓から手を出して指差したら、電信柱にぶつかって腕が吹っ飛んじゃったと言うんですよ。これを福岡君が「うそだー、うそだー」と野次を飛ばすのだが、添田先生は真っ赤になって「うそじゃない、うそじゃない」と口を尖らせて言ったのはいまだに覚えています。そういう素朴な時代だったんですね。
男性と女性は価値観が違うので、要するに男はすぐに掃除をサボりたがるでしょ。そうすると女性は必ず言いつけるんだよ(笑い)。先生のところに言いつけに行くと、添田先生が聞き役ですぐに来るんですよ。男女共学は初期はそんなものでした。お互いギクシャクしてね。
フォークダンスは多少は有ったが、メインとしては無かった。 学校に入ったときに、ガイダンスと書いてあるのでダンスをやるのかなと勘違いした(笑い)。当時としてはガイダンスは新語だったために、ダンスをやるのかなとびっくりした。
英語の授業で担当の先生が休まれたとき、美術の添田先生が代行したときのことなのだが。その中でGirl(ガール)の発音をギョ―ルと発音したものだから、みんなから「うそだー、うそだー」とやられるのだが、先生は何かの根拠があってそう発音したのだと思った。みんなはギョールと発音するのが恥ずかしかったのだが、佐藤読んでみろと指されてガールと発音するとギョールだと言うんですよ(笑い)。このことはみんな憶えていて、その後クラス会で、ギョールは何処の発音だろう、どうもハワイ辺りの発音かもしれないと話題になった。あとで添田先生に直接このことを聞いてみると「え!そんなこと言ったか」ととぼけられてしまった。
社会科の皆川先生の場合は、Come Summer Today という文章が出てくるのだが、これをカミサマツデイと日本語的に発音したので、やっぱり英語の先生とは違うんだなというエピソードがあった。でもそういうエピソードが有るためによく憶えているのが大切なことだと思う。
当時の中学生のとき一番の問題は、ピカソの絵が分からないことだった。戦時中のリアリズムな絵ばかりを見せられていて、ピカソの絵は落書きみたいで、こういう絵は見せないようにはうまく禁止されていた。しかし先生はピカソの絵を一生懸命教えてくれて、だんだんとなんとなく分かってくる。これはいろいろな角度から見た図だとか、生徒のスケッチを重ねてみてピカソらしい絵になるというふうに。あの当時の先生はたいへんだったと思う。わけの分からない絵が急に出てきて図画の先生が教えないというのはね。
添田先生はわりと年配の先生だった。お父さんよりはもう少し若い世代だけれど、親父的な感じでモダンな画家だから、結構女生徒にもてていた。男子生徒は何だよと思っていたのだが。