医者になろうと思っていましたから。親戚の叔父が三人医者だったんですね。親父が病死した関係もあってとにかく医者になれと言われていて、そのつもりでいました。ですから経済学部へ入って、2年したら医学部へ行くのが慶応のシステムだった。附属から一回経済学部へ入ったのは、廣瀬君、野崎君などがいました。ところが途中で自分には向いてないのではという気がしてきて、医者の道を蹴飛ばしてしまった。大学を卒業してみんなと同様にいわゆる企業に就職して日本石油の子会社に入ったのです。貿易実務をやり、タイプライターを見よう見まねで覚えて、そしてワープロの世界に入っていった。
書類がやたらに多い仕事のため、それをしっかり整理しておかないととんでもない間違いをやるわけですよ。そのために情報整理を結構やるようになった。これを6年間やったのでここで思い切って執筆活動してみようと決心しました。30歳近くで一回決心しないとそのままいってしまうから。前例が無いのでみんなから止められましたけれどね。
分からないことがあるとほっとけないんですよね。言葉の元は何だろうと思うとね。授業参観で辞書を引きながら読むというグループを選んで入って授業を受けたことがある。そのくらい辞書を引くということが好きだったんです。小学校時代に校長室の後ろのカギのかかったガラスケースの中の本が読みたくて仕方がなかった。附属中学校に入ったときも図書委員を志望して、少しでも本を触れるだろうと思ってね。当時紙の質が悪かったのだけれどアメリカ系の本は紙が良いから高級品に見えた。当時感激して読んだ本を最近古本屋で購入してみたら写真が全部見えなくなるほどつぶれていて見えないんだな。だけどそれを感激して見ていたんだからね。
高木一也君は模型製作が大好きでね。話が良く合ったため親しかった。「模型製作ABC」は当時の名著で、何でも自分で作ったという時代でした。小島先生はできるだけ自分で作れという指導だったため、ラジオや石鹸や幻灯機を作ってきたものです。なにせ何もないんだから。小島先生からはその他に電球のソケットのはめ方まで教わりました。また金環食があるのでよく見てこいと言って観察させたのだが、その後の授業で金環食の講義をするときに、黒板にチョークで正確な円を書いたことにみんなびっくりしたものでした。その後金環食の経過を詳しく説明したことをよく憶えています。それでみんないっぺんに尊敬したものでした。怖い先生だったけれども教え方でついてゆくんですね。
ホームページは卒業生よりも在校生に見てもらいたいね。卒業したら終わりなんだからその前に見てもらわないとね。ホームページはコンテンツが無いと更新したことにならないからね。いくら立派なホームページを作っても、更新できないと意味がない。だから1週間に1回更新しています。(驚き) なお紀田さんのホームページ「紀田順一郎のIT書斎」はこちらです いつもはなしを蒸し返してみんなで意見を募っていても、何かそこにインセンティブになるような話題を入れて喧嘩していかないとホームページは成り立たないですね。 物を書く人の中には出版社に頼んで自分の作品の宣伝とか時々読者からの手紙に答えるとか、これは続くのだけれど面白くない。
また他のタイプとして、趣味ないしは自分の文学作品については何かというようなまるで本でも出版するようなホームページを作ってしまう。そうするとそれっきりでおしまいになってしまう人が意外に多いですね。これだと一回訪問した人は来週は来ないということになってしまう。
吉備市というのは仕事場がある岡山の市なのですが、そこの第三セクターが運営するニューシティーにいます。岡山は前から過疎地帯なもので県の施策としてIT化を推進していました。随分早くからITが充実しているんです。
1週間に1回の更新はいろいろと工夫しています。過去に自分が書いたエッセーからひとつ借りてきて、それをホームページ風にアレンジすることがある。そのときはそれを3,4行づつ書いて1行あけたりして展開したり、これ以上長いものは無理というときは簡潔にしたりして工夫しています。意外に時間がかかるので、土曜日の朝30分から1時間早起きしてやっているんです。
ただ問題は写真を入れなくてはならないことなんだね。1枚でも入れないとうまくないんだな。あることを書きたいときにはそれに関する本の表紙を入れたり、挿絵などを使っています。版権の問題があるので、絵は簡単には使えない。本の表紙は使用を認められているのでよく使っています。また古本屋で19世紀ごろの洋書を買ってきて、その中の挿絵を使ったりしています。そういう苦労をしてやっています。1日少なくて60くらいのヒット数で、多いときは150くらいまでいきますね。これはつまりあるキーワードが有り、ペットや事件事故など話題性のあることについて書くと関連してヒット数が増えるようだ。あえてヒット数が上がるように努力しなければだめだね。こちらのペースでやっていてはだめなんだ。
ただホームページを介して情報の交流があればいいのだけれど、だいたい鉄砲玉みたいでそれで終わってしまう。いまブログで人気があるのは、横並びの生活的な話題ですね。
横浜などの同時代史を書き残したいですね。戦後の横浜野毛の状態を書いたものはほとんどないですね。みんなからいろいろな話を聞いてみるが分からなくなる可能性がある。附属の話も入れてね。むかしこんな中学がありましたとね。
上段左より吉田、伊東、河地先生
下段左より矢野、紀田さん、竹中