高等学校は私は教育大の附属に行きました。中学の同級生も3人いてその後、東大の教師になった宮島君もいました。なぜ教育大の附属に行ったかというと、本当は湘南高校に行きたかったのですが、ほかの人に薦められたからだと思います。当時は越境して高校へ進学する人が多くて、日比谷とか都立大の附属や湘南高校へ行った人もいました。
今みたいな受験勉強を小さいころからする状況では無く、ちょっと附属の3年生の時に先生からはっぱをかけられて受験勉強をさせられた覚えがあります。特に板倉先生は無茶苦茶だから、夏休みに9科目2冊ずつ問題集をやって来いと言われました。でも子供心に全部見るわけ無いと分かりまして、やった教科の問題集を上にして縄で縛って出しました。というようなことがありましたが、そこそこ先生のおかげで受験勉強が出来て多少自信がつきました。
高等学校も附属だから基本的にあんまり変わりませんでした。どこの附属もカラーが似ているからちょっと話をすると分かりましたね。それで東京の附属に行っても違和感が無かったです。
一浪して東大の経済学部に行きました。
経済学部をなぜ選んだかというと、大学に入った昭和37年はすでに高度成長が始まっていましたが、それでも景気が悪くなれば倒産する企業は多くなるし、生活苦で一家心中して新聞に載ったりする時代でしたから、経済の問題に興味をもちました。世の中が変わってきている事を若いなりに肌で感じて、変わる大きな動力になっている経済の仕組みを少しは勉強したいと思ったことが原因です。
当時の大学は、私が卒業する時にこのままではいずれ学生から文句が出るだろうと思うような実態でした。というのは、日本の大学は今でこそ外から改革を求められて努力を始めているけども、大学紛争が全国に広まるまでの大学は基本的に世の中からも関心を呼んでいないし期待もされていないし、学生も期待していませんでした。それを良いことに好きなことをやっていたから、実際に私の予想していたとおり学生から文句が出るのは当然でした。当時の経済学部の授業で面白いと思った授業は2,3の授業でしたよ。