昭和41年に卒業して何になるか考えたのですが、多少は世の中のためになろうというのは一つありました。もう一つは、大学の授業が全然面白くなかったので自分なりに勉強しようと思い、3年生の夏休みに信州の学生村に行きました。そこで自分の関心のある経済学を自分なりに勉強しました。せっかく勉強して試験があるというのだから試験を受けるかということで、専門の試験のある公務員試験を受けて通産省という役所に入りました。通産省では中学の同級生が一緒に入りました。だから、中学を出てから高校も大学も社会人になってからも附属生が近くにいたことになります。
役所は入ってみると、なんといっても自分の時間がありませんでした。めちゃくちゃ拘束時間が長かったです。特に嫌だったのは、大きな組織なのである事を決めるのにいろんな段階を踏まなければならない。ある所に持っていくとAという話になり、Aで行くのかと思って次のところに持っていくとBになって、また次のところに行くとAとなって、無駄な手続きが非常に多すぎました。それはそんなに面白いとは思いませんでした。
まず若い人と接することの出来る教師になろうと思い小学校か大学だなと思いました。大変だけれども本当に子供に影響を与えられるのは小学校。大学生になると授業を通じて必要な知識や勉強の仕方を提供することは出来ても、本当の意味で大きな影響を学生に与えることは無いだろうと思いました。だけど教員の免許を取ってきちっと教育が出来るような教師になれるような自信もありませんでした。あるいは学校の生徒だったから面白かったという面もあると思いまして。そう考えて結局、楽な方を選びました。笑
昭和52年にたまたま武蔵大学に私の友人がいて赴任しました。それから20数年たちました。